「りぼん夏休みお楽しみ増刊号」の表紙を見て、驚いた。 増刊号なので普段とは趣向を変え、ほぼ全掲載作品のヒロイン達が集合した格好になっているのだが、驚いたのはその顔である。物の見事に全員同じなのだ。 ただでさえ似た系統の顔が多い(キラキラで大きな瞳、というのは少女漫画を揶揄する時に多く使う例だが、あてはまる例は多い)「りぼん」掲載漫画のヒロイン達が、そろいも揃って同じ表情をしている。驚きとおかしさ、そして同時に薄気味悪さをも感じさせる表紙であった。
同じ表情とは、ずばり笑顔である。それは表紙に悲しい顔や憂いの表情を載せるよりも(悲しい話でない限り――いや、悲しい話であったならなおさら)、笑顔であった方が良いのだろう。しかし……、あまりにも笑顔の表現が単調だ。
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▽
AAエディタを起動するまでもない。上が、彼女達の表情である。数えてみたところ、表紙の中で特徴的な ▽ の形の口をしていたのは13人中11人(!)で、槙ようこと亜月亮の2人だけが違う形の口を描いていた。 裏表紙では23人中9人と、人外の徒がいるからかも知れないがやや落ち着いた。それでも全体として36人のうち20人が同じ表情をしているとは、何をもって正常をするのかはわからないが異常であろう。 この事態を見て真っ先に思いついたのは、記号化という単語であった。かつて手塚治虫(この治虫という字がIMEにデフォルトで入っているほど偉大な漫画家)が、後期には自分の絵は記号だと割り切っていた、という話を思い出したためだ。記号……ならばいいだろう。つまり絵はシナリオやネームの補足であると捉え、わかりやすさ、伝わりやすさを最大限に重視した。その結果が ▽ という口の形だというなら認めよう。一旦はそう考えた。しかし―― 納得がいかなかったのである。伝わりやすさを重点に置くならば、伝えるものがなくてはならない。記号はそもそも誰にでもわかるように作られたものであり、その伝えたいものは誰にでも伝わるはずだ。しかしこの表紙で僕が得たものは、驚きとおかしさ、そして同時に薄気味悪さ、これきりである(あと更新のネタか)。しかもそれは、個々の絵がもたらしたものではない。表紙全体に同じ顔が並んでいることによって引き起こされたもので、個々の絵自体には何の感慨も沸かなかった(そんな余裕がなかったのかもしれないが)。 これはただの記号化、単純化ではなく、また西原理恵子のようなビビッドな感情表現を狙ったものでもなく、ただ単に表紙といえばこの表情だと、慣例に乗っ取って描いているだけではないのだろうか。機械的表現に逃げているのではないだろうか。 ガラスの仮面には、演劇の教習で「笑え」と指示され、全員が腹を抱え、大声で笑い転げる中、主人公北島マヤだけが口元を少し上げるという最小の動きでそれを表現して見せた……、というシーンがあった(勿論演劇的にはNGだろうし、マヤは講師に怒られたのだが)。固定観念に縛られていてはいい仕事はできない。 表紙などに対して期待しすぎなのかもしれないが、そこはたかが表紙、されど表紙というものであろう。表紙が気に入って漫画を買う例も多い。これは雑誌だが、きれいな表紙は人をひきつける。……頑張って欲しい。
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